「救いのおとずれ」 2014年11月23日 礼拝説教 ルカによる福音書19:1-10
ザアカイの物語を通して、今日を生きる私たちにとって「救いとは」について、考えてみたいと思っています。
まず、当時のユダヤ社会は、罪人と異邦人、汚れたものを排除して、純血性、正当性を守ることで成り立つ共同体でした。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」というイエスの言葉は、「この社会は、違う人々を排除することで成り立つ社会であるが、私は違う人々を受け入れる、違いを包容する社会を提案するのである。」「それがほかならぬ神の国である。」という宣言なのです。救いとは、個人の事柄ではなく、私たちが生きている、この社会にも関わる事柄なのです。
そして、徴税人の頭であるザアカイは、ユダヤ社会では罪人の代名詞として、疎外されて生きていました。「救いがおとずれた」というイエスの宣言は、単なるザアカイの魂が救われただけではなく、body-soul-in-community、つまり、「共同体の中での肉と魂」が真の人間の姿であり、それこそ、救いであることを示しています。
最後に、聖書は、いちじく桑の木に登り隠れていたザアカイが、イエスに見つかったといいます。たくさんの人々がイエスと同じ空間にいたにもかかわらず、イエスだけが隠れているザアカイの存在を見つけたのです。私たちが注目したいのは、「イエスの見方」(mode of seeing)です。イエスを信じるというのは、ほかならぬ「イエスの見方」に倣っていくことです。1986年アメリカの牧師、チャールス・シェルドンが出版した「イエスの足跡に従って(In His Steps)」という本の副題で使われた「イエスならどうするだろうか」(What Would Jesus Do?) という問いかけにこたえ、この社会の中で主体的に生きるとき、そこに「救いのおとずれ」があるのです。