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主日礼拝宣教要旨

「苦難の意味」 内藤淳一郎師

2023年4月30日礼拝宣教要旨
ヨハネによる福音書1-3節

「苦難の意味」 内藤淳一郎師

 

弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

 

ヨハネによる福音書9章2-3節


 私たちの人生には様々な苦難、不幸、悲劇が襲う。癌などの不治の病に冒される。事故や事件に巻き込まれる。地震、津波、洪水など、自然災害によって命を落とす。そして、愛する者に先立たれる悲しみ。私たちの人生、私たちの命は、死と隣併せである。また、経済的困窮のため生き辛さを覚えて自死する人がいる。

 主イエスの時代も、人々はさまざまな病気、経済的貧困、差別など、多くの苦しみを抱えていた。主イエスが弟子たちと歩いておられる時、生まれつきの盲人を見られた。この世には様々な苦しみが一杯あるが、生まれた時から障害があるとは何と理不尽な苦しみであろう。全能の善なる神が支配するこの世界に、なぜ罪なき者の苦しみが満ちているのであろうか。

 弟子たちは主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか誰のせいですか」と尋ねた。弟子たちの質問に、主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言われた。なんという驚くべき言葉であろうか。主イエスは、生まれつき目が見えないという理不尽な障害の原因を、この人の罪とか、両親の犯した「罪の罰」という因果応報の考えを完全に退けられる。そして、この人は苦しみを通して神のみ業を見ることになる、と宣言された。

 「神の御業」とは、神様がこの人に御自身の救いを現わされる働きである。神様が働くその時、この人は霊の眼が開かれて、今まで知らなかった「神様が生きて働く世界」を見るようになるのである。愛と慈しみに満ちた神様にお会いするのである。その時、この人は自分の不運を嘆く人生ではなく、神の御計画の中で、神様に用いられて生きる人生を歩むようになる。「苦難は、目に見える世界を打ち破る神のメガホンである」(C.Sルイス)。

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