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朗読 『一日の発見 365日の黙想』11月20日

本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のわざがこの人に現れるためである。

ヨハネによる福音書9章3節

 弟子たちは生まれつき目の見えない人を見て、主イエスに「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と問うた。今日の聖句は彼らに対する主イエスの答えである。災難や不幸な目にうと、ばちが当ったとか、両親や先祖の罪がたたったのだと言う人々がいる。しかし、罰が当ったと言われても、それで苦しんでいる本人が救われるわけではない。
 主イエスはこのような因果応報説を否定する。そして、その人の苦しみは神の栄光が現れるためであると語る。そして、主イエスは目の見えない人の目をいやされた。まさに、この人は主イエスの言葉に希望を与えられ、主のわざによって自分に向けられた神の愛のまなざしを見る者となった。
 私たちは皆、さまざまな問題を背負っている。そして、負わされている問題の暗さだけを見て、不幸を嘆き、また、その原因にこだわっている。そのような私たちが主イエスの言葉を聞く時、物事を見る目が根本的に変えられる。たとい不幸と思われることを背負わされても、失望しない。そこに神の摂理があり、神は必ず良いことに変えてくださると信じるからである。そして、神の御業みわざを待ち望んで生きるのである。主イエスに信仰の目を開いていただくことは肉体のいやしに勝る。主イエスの言葉は、私たちに神の愛の光の中にある自分を知らしめ、苦しみを前向きに受けとめる希望と勇気を与える福音である。


著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/

朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。

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