わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。
コリントの信徒への手紙一 9章16節
初代教会において、使徒は宣教に専念するために教会から報酬を受ける権利があったようである。しかし、パウロはコリント教会でこの権利を用いなかった。彼がコリントを去った後、教会に彼の使徒職を批判する者たちが現われた。彼らはパウロがこの権利を用いないのは使徒でないのに使徒を名乗っているやましさのためだと言った。これに対して、パウロは使徒である根拠を示すとともに、使徒の権利を用いなかったのは、福音宣教を妨げないために選び取った自分の自由であると言う。
パウロはマケドニア諸教会からの支援は喜んで受けている。しかし、コリント教会には、彼が報酬を受けると、金銭欲から伝道しているように思う人々がいた。教会が霊的に未熟であったので、パウロは彼らの躓きにならないために、報酬を受け取らないという態度を選び取った。それは、パウロの自由であった。彼はそれを「わたしの誇りである」とすら言い、また、誤解されないために、今日の聖句を語った。
福音宣教はパウロにとって自由な選択ではなく、「そうせずにはいられない」務めであった。福音宣教は、福音の恵みにあずかったキリスト者に対する主イエスの命令である。しても、しなくてもよい務めではない。しかし、皆が同じような方法で伝道をするのではない。話をする人がいて、背後で祈る人がいる。賜物に応じて、各々の仕方で伝道する。その時、各々が教会を造り上げるために、人の躓きにならないようにと自分の態度を選び取るのがキリスト者の自由である。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。