人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。
マルコによる福音書 8章36節
人間の命は他者と関係を持つ命である。他者とどのような関係を持つかは、各人の自由に任されている。人間の命はさまざまな機能を持つ生物的な命であると共に、自由意志によって他者との関係を築く人格的な命である。この命は偶然に生じたのではなく、全能の創造者によって造られたのである。創造者である神は、語りかける神、他者と関係を持つ人格である。人の命は、この神に「似せて造られた」人格的な命である。だから、命は尊い。神は被造物や歴史を通して、そして主イエスを通して語っている。人間は神の意志に応えて生きることが求められている。命を偶然の所産、また、命は自分のものという考えが、殺人や自殺など、命を粗末にする社会にしているのである。命は自分で造り出したのではない。この不思議な命は神から与えられたものである。このことを認めない限り、誰も、人の命の尊厳を語ることはできない。
人の命には短い命、長い命の違いがあり、平等ではない。病気、能力、環境などの違いもある、その違いによって、生きることが制約されることも事実である。しかし、変えることができない自分に課せられた十字架を、どう引き受けるかによって、命を意味あるものとすることができる。変えることができない運命を嘆いてはならない。苦悩に満ちていることが不幸なのではない。人間の命は苦悩の中で成熟し、輝くのである。自分の満足だけを求めて生きる者は、空しい人生に終わるだろう。反対に、神が自分に何を期待しているかを問い、神の意思に応える人生は、この世の評価とは関係なく、内なる深みに光を持つ。主イエスの今日の聖句はそのことを語っている。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。