なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。
マルコによる福音書 5章39節
会堂長のヤイロは、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言って、主イエスにひれ伏した。主は父親の切実な願いを聞いて彼の家に向かった。しかし、途中で一人の女性と関わることによって、主の歩みは中断した。
そこに家から使いの者が来て、娘の死が知らされ、ヤイロの願いは打ち砕かれた。使いの者は「もう、先生を煩わすには及ばない」と言った。すべてが終わったと思える状況の中で、主イエスはヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言い、彼の家に向かった。そして、家に入ると、大声で泣きわめいている人々に今日の聖句を語った。この言葉を聞いた人々は嘲笑った。しかし、主は人々の嘲笑いを聞き流して、死んだ子供のいる部屋に、ヤイロ夫婦と三人の弟子だけを連れて入った。そして、「タリタ・クム(少女よ、起きなさい)」と言って、眠っている者を起すように、死んだ子供の手を取って起した。
主イエスはこのことを誰にも知らせないようにと厳しく命じた。なぜか。この蘇生の奇跡は、主ご自身の十字架の死と復活から切り離して、受け止められてはならないからである。これと切り離して、奇跡だけが語られるならば、誤解は生まれても、主イエスに対する正しい理解も信仰も生まれない。死が不条理であるのは、人間の罪のためである。しかし、神の御子イエスがすべての人のために死んで、罪の贖いとなり、神と和解させてくださった。それで、主イエスの憐れみを受ける者には、死はもはや死ではなく、御国に目覚める日までの眠りなのである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。