わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
マタイによる福音書27章46節
十字架には、神との関係を転倒している全人類の罪が噴き出ている。まさに神は十字架に噴き出ている人間の罪を御子に負わせ、裁いた。今日の聖句は、神に裁かれ、棄てられた主イエスの叫びである。神は罪人を受け入れるために、御子を棄てられた。十字架は神の痛みである。「神は聖であるから敵対者を裁くが、憐れみをもって敵対者を赦すゆえに、苦しみを受けるのである。十字架は、神の聖と愛とが交差する神の痛みである」(北森嘉蔵)。
神の御子が罪のないご自分の体を裂き、血を流し、ご自身を贖いの供え物としてささげて、父なる神に罪人の赦しを執り成した。主イエスの叫びは、罪を犯している人間が一人も滅びないで、神に義とされることを願う神の愛の叫びである。
三日後、神は主イエスを死から甦らせた。神は御子イエスによる罪の贖いを受けて、主イエスを高く引き上げ、信じる者の罪を赦す救い主とした。今や、主イエスによって、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」、神と私たちの間を遮っていた罪は取り除かれた。私たちは主イエスの十字架の道を通って神に近づき、神に義とされ、神との正しい関係に入れられる。主イエスを信じる信仰によって、神との正しい関係に入れられ、神の愛と神の善き力に守られて生きる私たちには、主イエスの十字架は何にも替えられない誇りである。苦難の時も、死の陰の谷を行く時も、十字架に現わされた神の愛から私たちを引き離すものは何もないと確信しているからである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。