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朗読 『一日の発見 365日の黙想』2月6日

2月6日

だれでも、わたしの天の父の御心みこころを行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。

マタイによる福音書12章50節


 律法に厳しいユダヤ人は、律法を守らない人々と交わる主イエスを公然と非難するようになった。母と兄弟たちは主イエスを心配し、思いとどまらせようとしてやって来た。ところが、主は「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか」と言った。この時、主イエスは家族を拒否したのではなく、使命を果たすために家族と一歩距離を置かれた。

 主イエスはご自分の側にいた人々を指して、「ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる」と言い、今日の聖句によって、肉の家族ではなく、神の家族について語られた。それは「だれでも」とあるように、開かれた家族であり、「わたしの」と言われているように、主を中心とした家族である。主イエスの復活後、母マリアと兄弟ヤコブは神の家族の一員となった。
 天の父である神は、主イエスを通して御心みこころを啓示された。それは失われた者を無条件に受け入れる神の愛である。「天の父の御心みこころを行う人」とは、主イエスを通して現わされた神の愛を信じる人である。神の家族は神の愛の中に生きる者たちの共同体である。人は神に愛され、神の家族の一員となることによって、自由で自立した人間になる。人の評判に振り回されたり、集団でいることに甘んじない。それは孤立することではない。人間関係の危機に直面しても、主にあって忍耐し、人を赦し、人に赦しを乞い、人との関係から逃げないのである。夫婦であれ、親子であれ、友人であれ、天の父の御心みこころを行う者となることによって、ふさわしい関係を築くことにつながってゆく。


著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/

朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。

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