御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
マタイによる福音書6章10節
初代教会は、信徒たちを「主の弟子」、「主の僕」と呼んだ。「弟子」や「僕」という自己理解に、主イエスを信じる者の立場がよく言い表されている。主イエスを信じるとは、自分の願いはおいて主人の命令に従う僕のように、主の御心を行う僕となることである。神の大きな恵みによって、神の民とされた信徒は、神の恵みに応え、神の御心が行われることを願って、神に仕える。
会衆主義の教会は、教会の宣教の働きを信徒たち全員で協議して決めるが、それは決して自分たちの願いを実現するためではない。神の民として、共に神の御心を行うためである。それゆえに、常に神の言葉に聞き、神の御心を知ることが、神の民である前提である。
主イエスは「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)と言った。その方が十字架の死を前にして、「父よ、……わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(26:39)と祈られた時、苦しみもだえ、汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた。「わたしと父とは一つである」と言われた主イエスが、父の御心を行うために血の滴るような汗を流して祈られた。ましてや私たちは祈りなしに神の御心を行うことはできない。主イエスが祈れと言って、今日の聖句を教えた理由がここにある。これは、神が地の上に御心を行ってくださいという祈りであるとともに、私たちが御心を行えるよう助けてくださいという祈りである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。