わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
マルコによる福音書15章34節
ユダヤ人議会は主イエスを神の冒涜者と断じ、死刑を求刑した。しかし、死刑執行権はローマにあったので、総督ピラトに連行し、ローマへの反乱者として訴えた。ピラトは主イエスに罪はなく、ユダヤ人指導者の妬みによって訴えられたことを知ったが、自己保身のため真実を曲げ、十字架刑を下した。主イエスは十字架に張り付けられた。ユダヤ人もローマ人も神を恐れない罪によって主イエスを十字架につけたのである。主イエスの十字架には神を恐れない人間の罪が行為となって表れ出ている。
今日の聖句は、十字架上の主イエスの叫びである。人々に神の義と愛を示し、「わたしと父とは一つである」と言われた罪なき主イエスが、なぜこのような叫びをあげられたのか。神は「私たちの罪をすべて、彼に負わせられた」(イザヤ53:6)のである。神は罪を犯す人間を裁く義なる方である。しかし、神はすべての人間の罪を赦すために、その裁きを罪なき御子イエスに下し、これによって義を全うされたのである。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(Ⅱコリント5:21)。
人の罪が露にされた十字架の上で、神の御子が人に代わって肉体の激痛以上の、神に捨てられるという裁きを受けた。これによって、神は不敬虔な人間を無条件で赦す神の恵みを示された。十字架の主イエスを仰いで、罪の赦しの恵みを信じる人は、神の愛が支配する新しい人生に生かされる。信仰がなければ、神の愛の働きようがなく、その人を新しく生まれ変わらせることはない。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。