まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
ルカによる福音書 15章20節
イエスは放蕩息子の譬えによって、神がどのような方であるかを語った。弟息子は財産の分け前を手にすると、父の家に縛られない生活を求めて旅立った。人は神に縛られない自由を求める。父親は心配するが息子の自由を尊重する。息子は気ままな生活をして財産を浪費した。人は神から託されたものを浪費することが分かる。その地方に飢饉があり、どん底に落ちた時、息子は我に返った。彼は拠り所のない自分に気づき、父の家を思い出した。もし人がどん底に落とされて、ただ惨めな自分に絶望するだけならば、救われない。自分のことを心にかけている神のことを考え、神の家に向かって一歩踏み出すことによって救われる。息子はそこを発ち、父親のもとに向かった。
今日の聖句は、帰って来る息子を迎える父親の姿である。「憐れに思い」とは、「腸がちぎれる」という意味である。父親は息子のことを「腸がちぎれる」ほど心を痛めていたのである。このように神は、神の家から離れて、自分勝手な道を歩んでいる失われた一人ひとりに心を痛め、御子を世に遣わすほどの強い愛でその魂を追い求め、御許に立ち帰って来るのを待っている。そして、神の許に向かって一歩を踏み出す者がいれば、神の喜びは大きく、駆け寄って、かき抱く。帰って来た息子に接吻し、僕たちに祝宴の用意を命じる言葉に、息子を取り戻した父親の喜びが響いている。この父親の喜びは、失われた罪人を探し求め、その一人が見つかると、「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)と言う神の喜びである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。