新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。
マタイによる福音書9章17節
宗教には、救いの内容や信仰を表現する礼拝儀式や宗教行為がある。しかし、儀式や宗教行為はともすると形式や習慣に陥りやすい。しかも、それらが喜ばしいものでなく、義務となり、その義務を果たさない者を非難する宗教ならば、その宗教は命を失っていると言う他ない。
ファリサイ派の人々が主イエスに「私たちは断食しているのに、なぜあなたの弟子たちは断食しないのか」と非難した時、主は「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」と言い、花婿と一緒にいる婚礼の客(弟子たち)としてふさわしいのは喜びであって断食ではない、と言われた。そして、今日の聖句によって、主イエスと一緒にいることを、発酵力のある新しいぶどう酒に譬えて語った。
花婿である主イエスと一緒にいるという神の国の福音は、喜びに溢れたものであり、形式や習慣という古い革袋では盛ることはできない。それは新しい革袋を必要とするのである。福音は単なる教えではない。インマヌエル、「神は我々と共におられる」(1:23)という喜ばしい事実である。この世にはさまざまな試練があり、自分の弱さや不運に泣くこともあるが、福音はそれらによっても失われない喜びを告げる。私たちは神の子イエスによって一切の罪を赦され、過去のしがらみから解放され、神に希望を置いて生きる者とされた。この喜びを表わす革袋が形式や習慣であるはずがない。私たちが守る礼拝も、決して義務的な形式や習慣ではなく、婚礼に招かれた者たちが喜び祝うように、インマヌエルの事実をいつも新たな思いで受けて、神を喜び祝うのである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。