西川口キリスト教会 朴思郁協力牧師
「イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、13:13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」(ルカによる福音書13章12-13節)
イエスは、ユダヤ教で最も大切に守っている安息日の規程を繰り返して破りました。その一つは、安息日に、ある会堂で、腰の曲がった婦人を癒やされたことです。その会堂の会堂長の「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」という主張は、十戒の戒め(出エジプト記20章8-11節)に照らしてみると、もっともらしく、とても合理的な話です。会堂長は、決して病人を癒すこと自体を否定したわけではありません。命に支障がない限り、一日我慢すれば安息日を犯さずに済むのに、なぜ安息日の規定を破るのかということです。
イエスは、会堂長に対して、「偽善者」と言われました。会堂長は、聖書に精通し、実践しようとする敬虔な信仰の持ち主なのに、なぜ偽善者と言われたのでしょうか。会堂長の主張は、ことごとく正しくても、人に対する尊厳と哀れみが感じられません。「すぐ死ぬわけではないのに、一日我慢すれば」という会堂長の考え方には、苦しみの中にある一人の人間に対する思いやりがまったく伝わってこないのです。要するに、イエスは、人に対する哀れみより、自分の教理、名誉を優先することを偽善と言われました。信仰と言いながら、人々に対する思いやりがなければ、それこそ偽善であると言われるのです。
会堂長の姿は、決して他人事ではないと思われます。聖書に描かれている「会堂長」が、自分の中にも潜んでいると言えるのです。自分なりには、聖書に書いてある通り、神のために、熱心に信仰生活に励んでいるつもりですが、いつの間にか、人に対する哀れみより、自分の知識や信念を優先してしまうのではないかと問われるのです。それゆえ私たちは信仰と偽善の中に立たされて、常に自分を省みていかなければならないと思います。「今、ここで、イエスならどうなさるだろうか」という問いかけに、真剣に、謙虚に応えていくものでありたいと思います。