西川口キリスト教会 斎藤 信一郎 牧師
「セムの神、主をたたえよ。」 創世記 9章26節前半
大洪水から命を守られたノアはその後、アダム同様に農夫として生きたことが語られます。しかもこれ以降、重要な役割を果たすぶどうを栽培し、ぶどう酒を作ったことが語られます。ある時、ノアは酔って裸のまま寝てしまい、次男のハムに見られてしまいます。創世記の出だしの物語を読むと、初めこそ、裸を見られることは何の問題にもならなかった人類の祖であるアダムとエバでしたが、神に対して罪を犯した時から、裸を見られると罪の自覚に非常に苦しむようになってしまいます。神はその際に皮の衣を作って彼らが罪の影響で人生に絶望しないように救います。今回の話で自分の不注意とは言え、ノアが裸を見られたことに過剰に反応している背景には、このような理由があります。ハムは父の恥を憐れんで見て見ぬふりをするどころか、兄弟たちに告げ口して自分では何もしませんでした。このためにアダムは次男のハムだけではなく、その息子まで呪う言葉を口にしてしまいます。
しかし、希望もありました。セムは先祖たちが神から受けた憐れみの意味を理解し、弟のヤフェトに模範を示します。それは父の裸を見ないで、後ろ向きに近付いて服を掛けてあげることでした。ノアはハムが自分で対処せずに末の弟にやらせたことを嘆く一方で、長兄のセムがとった行動を褒めます。注目すべき点は、その時に26節冒頭で「セムの神、主をたたえよ。」とノアが賛美したことです。この箇所で「アダムの神」ではなく、「私の神」でもなく、「セムの神」と語ったことによって、セムが直系の先祖たちと同じく、正しい神理解と信仰継承をしていることが表現されているのです。
今回の箇所で語られた次男のハムの生き方は、やがて息子のカナンの名前で呼ばれることになる罪深いカナン地方への影響が示唆されています。その逆に、セムの信仰はイスラエルの信仰の祖となっていくアブラハムへとつながって行くことが示唆されています。しかも、この箇所でセムが見せた憐れみと父の恥と失敗を自分の問題として受け止めた行動は、新約聖書のイエス・キリストの十字架のあがないの信仰に通じます。神に信仰を認められて洪水を生き延びたノアでしたが、完全無欠の人間ではなく過ちも犯す人間でした。それを家族が協力して補っていく姿こそ、現代の神の家族である教会の姿であって欲しいと、聖書は私たちに語りかけています。