2016年7月17日(日) 礼拝宣教要旨 「体のともし火は目」マタイによる福音書6章22-23節
「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(22-23節)
目と言うのは、私たちの体の中で大変重要な器官です。目の障害を持つと生活に様々な制約が生じます。この目のたとえを用いて主イエスは「体のともし火は目である。」と言われます。目がともし火の役割を果たして体を照らしてくれるというのです。目が正常に働けば、体の状態を正確に良く見ることができると言う意味と、体自身を明るく保つことができるという意味の両方の効果が期待できると言うことでしょう。逆に目が濁ってしまい、正常に見ることができない状態になれば、体の状態を正確に把握することも、明るく元気に保つことも難しくなるというたとえです。
主イエスはあえて「あなたがたは」と複数形で言わずに「あなたは」と私たち一人一人を意識してこの言葉を語っておられます。つまり、「あなたが体のともし火の元となる目の役割を果たすのですよ」と期待を込めて語っておられるのです。それでは、どのようにしてこのような役割を果たすことができるのでしょうか。それは光源そのものである主イエスに輝いてもらうことによって可能となるのです。懐中電灯が暗い夜道を明るく照らすように、私たちを通して主イエスの光を人々へ照らし出す時に、キリストの体である教会も、またこの世の中も明るくキリストの福音で照らすことができるのです。
最近のニュース報道を見ていますと、本当に暗い悲しい事件が後を絶ちません。目が濁った人々がなんと多いことでしょうか。そのような世の中にあって、キリストは私たちを清めてこの世の光として用いて下さいます。そのためにもいつも目薬の役目を果たす日々の聖書通読と祈りの生活を心がけましょう。また時には他人の助けを借りて手術を受けなければならないような時もあるでしょう。それはキリストの体である教会の執り成しの祈りの中でなされていくものです。教会での諸集会と交わりも大切にしながら共に体のともし火としての役割を担い合って行きましょう。