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主日礼拝宣教要旨

「仕えるために来られた主」 朴 思郁 牧師

2026年10月4日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:マルコによる福音書10章42〜45節

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために……来たのである」

マルコによる福音書 10章45節

 イエスさまが三度目の受難を予告された、そのすぐ後のことです。ヤコブとヨハネは、栄光をお受けになるとき、自分たちを右と左に座らせてほしいと願いました。ほかの十人は、それを聞いて腹を立てます。十字架を語っておられる方のすぐ隣で、弟子たちは「誰が上に立つのか」を争っていたのです。
 そんな弟子たちを、私たちは笑うことができません。人が集まるところには、いつの間にか「上」と「下」が生まれます。信仰歴、奉仕の年数、役職、声の大きさ。教会もまた、その例外ではありません。
 しかし、イエスさまは言われます。「あなたがたの間では、そうではない。」そして、「偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい」と語られました。上へ行こうとすればするほど、下へ降りていく。梯子は同じようにかけられていても、その向きが逆さまなのです。
 ただし、この言葉は、すでに弱い立場に置かれている人に「もっと我慢して仕えなさい」と求める言葉ではありません。主が語りかけておられるのは、右と左の席を求め、上に立とうとしていた者たちです。
 そして主は、ご自身が「仕えるために来た」と言われました。それだけではありません。「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」と語られます。私たちが払うことのできなかった代価を、主ご自身が払ってくださった。仕えることの根は、私たちの努力ではなく、十字架にあります。
 仕えることは、相手の声を聞くことから始まります。相手が何を必要としているのかを聞かずに差し出すものは、しばしば、自分が与えたいものに過ぎません。会堂の掃除、台所の働き、誰も見ていないところでの祈り、体の不自由な方にさりげなく手を差し伸べること、まだ誰とも話していない方の隣に座ること。誰かのために、そっと心を配ること。そうした小さな働きによって、教会という群れは支えられています。
 そして私たちは、主の食卓に招かれています。この食卓では、誰もがまず、手を差し出して受け取る者です。私たちは、仕えることによって神さまに受け入れていただくのではありません。まず主から受け取り、受け取った手で、隣にいる一人へと手を差し出していくのです。
 仕える共同体は、理想から始まるのではありません。仕えてくださった方から始まります。

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