2026年9月13日(日)主日礼拝 〜敬老の日を覚えて〜 宣教要旨
聖書箇所:サムエル記下 19章21-40節
白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる
箴言 16章31節
アブサロムの乱によってエルサレムを追われたダビデが、ヨルダン川の東マハナイムに逃れたとき、寝具と食べ物を運んできた人がいました。ギレアド人バルジライ、八十歳。剣を取ったのでも、演説をしたのでもありません。しかも敗走中の王に味方することは、次の政権に睨まれることでした。いちばん失うものの多い人が、いちばん危ない側に立ったのです。聖書が記憶しているのは、戦った人の名前とは限りません。台所を預かり、寝床を整えた人の名前です。
帰還する王は言います。「わたしと共に来てくれないか」(19章34節)。王の食卓に連なる破格の名誉です。ところがバルジライは辞退します。「わたしはあと何年生きられましょう」「何を食べ何を飲んでも味がなく、男女の歌い手の声も聞こえない」。自己憐憫でも卑下でもなく、自分の現在地を正確に知っている言葉です。先週、私たちは「分別を獲得せよ」と聴きました。「善悪の区別も知りません」と言えることこそ、いちばんの分別なのかもしれません。
今週の聖書教育は二四課「呪いの言葉を受けて」。逃亡中のダビデに石を投げ、塵を浴びせたシムイが、王の帰還を聞くと千人を引き連れて渡し場へ駆けつけます。聖書教育は、千人での出迎えは謝罪というより交渉術や保身とも感じられる、と記します。王が返り咲くとき、人は自分の立ち位置を計算します。その渡し場で、ただ一人何も求めなかったのがバルジライでした。彼は見送りに来ただけです。
「ここにあなたの僕キムハムがおります」(19章38節)。自分は行かない。代わりに若い者を送る。自分が渡れない川の向こうへ、次の者を渡したのです。数百年後のエレミヤ書には、ベツレヘムの近くに「キムハムの宿」と呼ばれる場所が残っています(41章17節)。手渡すとは、自分の名を残すことではありません。手渡した相手の名が残ることです。
「王はバルジライに口づけして彼を祝福した」(19章40節)。ダビデは息子アブサロムを失ったばかりでした。深い悲しみを知った人だからこそ、人を祝福できるのかもしれません。逃げていく日にシムイの呪いを浴びた、その同じ道の上で、今その口は祝福を語っています。箴言は「白髪は輝く冠、神に従う道に見いだされる」と歌います。冠は勝者の記念品ではなく、その年月を神に従う道の上で歩き通した人の頭に置かれるものです。今朝の「年長者感謝の時」は、この口づけにあたります。「共に仕え、共に育つ」群れとして歩んでまいりましょう。