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主日礼拝宣教要旨

「知恵を獲得せよ」 朴 思郁 牧師

2026年9月6日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:箴言 4章5〜9節

知恵の初めとして/知恵を獲得せよ

(箴言 4章7節)

 箴言四章五節から九節は、命令の連続です。忘れるな。離れ去るな。獲得せよ。抱け。抱きしめよ。父が子の肩をつかんで揺さぶるような語り口です。「獲得せよ」と訳されたヘブライ語カーナーは市場の言葉で、「買う」という意味をもちます。知恵は生まれつきの才能でも、年を重ねれば手に入る「おまけ」でもない。この父自身、「父はわたしに教えて言った」(4:3-4)と語る、かつて受け取った者でした。

 私たちは「知る」ことにかけて恵まれた時代にいます。けれども情報は知恵ではありません。聖書教育の黙想に鋭い一言があります。ナタンは王ダビデの「イエス・ヒューマン」ではなかった。現状AIは使用者に同意する傾向が強い。叱ってくれる存在は貴重だ、と。同意してくれる声は、どれほど集めても学びにはなりません。

 「これまでに得たものすべてに代えても/分別を獲得せよ」(4:7)。「分別」ビーナーは「~のあいだ」と同じ語根で、間に立って違いを見分ける力です。ダビデはバト・シェバがウリヤの妻と知りながら関係を持ちました(サムエル記下11章)。情報はあった。足りなかったのは分別でした。聖書教育は「権力を持つ者こそ、何に聞くべきかが大切」と指摘します。

 「知恵の初め」は、一章七節「主を畏れることは知恵の初め」と響き合います。求めるという行為そのものが、自分は持っていないと認めることだからです。ナタンの譬えを他人事として聞いたダビデは「その男は死に値する」と怒ります。そこに「その男はあなただ」。王でありながら、彼は指摘を受け取りました。神さまが与えられたのは教訓ではなく、ナタンという一人の他者でした。教会が学びの場であるとは、そういう意味です。

 叱責の後の詩編五十一編は、失敗が祈りへと変えられた姿を示します。今月、聖書教育はダビデの後半生を歩みます。失敗も、老いも、嘆きも、別れも、神さまの前では学びの季節となる。箴言は「あなたの頭に優雅な冠を戴かせ」(4:9)と結び、十六章では「白髪は輝く冠」と歌います。冠は勝者の記念品ではなく、長く主に従って歩いた人の頭に載せられるものです。九章では、知恵が食卓を整えて招きます。今日の主の晩餐がそれです。代価は私たちに払えません。「銀を持たない者も来るがよい」(イザヤ書55:1)。キリストご自身が「神からの知恵」(一コリント1:30)として、すでに置かれています。「学びの季節」を、「共に仕え、共に育つ」群れとして歩んでまいりましょう。

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