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地域と共に歩む桜並木の教会

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主日礼拝宣教要旨

「見えるものか、信頼か」  朴 思郁 牧師

2026年7月19日 (日)  聖書箇所:サムエル記上 8章4節〜9節 

「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」 

サムエル記上8章7節

 イスラエルの民は今、大きな転換点に立っています。長老たちが年老いたサムエルのもとに来て、「ほかのすべての国々のように、我々のために王を立ててください」と申し入れます(8章5節)。きっかけはサムエルの老いと息子たちの失政でしたが、底には、不確かさのうちに対話しつつ歩むことを良しとしない心が広がっていました。民は「他の国々と同じように」、目に見える土台に立ちたいと願ったのです。  

 今週の聖書教育は、王制のもとでは「人々が見ていくものが変わる」と語ります。目に見えない神から、目に見える力を持つ王へと、目線が移されていくのです。これは遠い昔の他人事ではありません。健康、暮らし、仕事、教会の将来――思い煩いを前に、私たちもまた、目に見える確かな力を握りしめたくなります。王を求める民の姿は、鏡に映る私たち自身の姿でもあるのです。 

 その言い分はサムエルの目に悪と映り、祈る彼に主は言われます。「彼らが退けたのはあなたではない。わたしが王として君臨することを退けているのだ」(7節)。この一言に、聖書教育は「神の悲哀」を聴き取ります。それはエジプト以来、繰り返された古い背きでした(8節)。それでもなお神は民を見捨てず、「彼らの声に従いなさい。ただし、はっきり警告しなさい」(9節)と告げられます。民の立ち帰りを待ち、その愚かさのただ中をなお共に歩まれるのです。 

 この神のご決意は、千年の後、時が満ちて、御子イエスを世に遣わす出来事となりました。教会は主イエスを「まことの王」と告白します。人の弱さを知り尽くし、その取り返しのつかなさを負うて十字架にかかり、復活されたこのお方が、今や私たちのまことの王として共に歩んでくださるのです。サムエルは主の言葉をことごとく民に伝えます(10節)。語ることをやめず、待ち続けてくださる神――それが、私たちの前に立つ神です。 

 今日は、新会堂の献堂から十六年を迎える日でもあります。会堂はやがて古びても、神への信頼は古びません。次の世代へ受け渡すべきものは、見える王でも揺るがぬ制度でもなく、なお語り、なお待っておられる神への、生きた信頼です。見えるものか、それとも信頼か。握りしめるのは、見えなくとも確かに共に歩んでくださる神への信頼です。この一点を握りしめ、「共に仕え、共に育つ」群れとして、新しい一週間を歩んでまいりましょう。 

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