2026年4月12日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:テトスへの手紙 1章5-9節
「監督は神から任命された管理者であるので」
テトスへの手紙1章7節
先週のイースター礼拝で、私たちは復活の主から「遣わす」という言葉を聴きました。逃げた者、裏切った者に向かってさえ、主は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われたのです。今朝の箇所は、その「遣わされた」先で生きるということ——「任される」ということの深みへと、私たちを招いています。三つのことを共に聴いてまいります。
まず、任されることの重さについてです。パウロはテトスをクレタに「残しました」。そこは混乱した教会があり、異端者も内部にいた、一筋縄ではいかない場所でした。しかしテトスはその場所に確かな使命とともに置かれました。私たちもまた、それぞれの場所に「残されている」者です。家庭に、職場に、この教会に。任されるとは単に役割を与えられることではなく、その場所と人々への責任の中へと招かれることです。
さらに、任された者の姿についてです。パウロが列挙する長老・監督の資質——「わがままでなく」「すぐに怒らず」「客を親切にもてなし」——は、いずれも他者との関係の中で現れるものです。それは長老だけでなく、教会に生きる私たち全員への問いかけです。また9節の「教えに適う信頼すべき言葉をしっかり守る」とは、嵐の中でも錨を手放さないように、キリストの言葉を生きる根拠として握り続けることです。求められているのは特別な力ではなく、人との関わり方とみ言葉に立ち続ける姿勢です。
最後に、任せてくださる方の恵みについてです。「監督は神から任命された管理者」——ギリシャ語の「オイコノモス(管理者)」は、主人の家を委ねられた者を意味します。私たちが任されているものは、私たちのものではない。神の家族としての教会を、神から委ねていただいているのです。今月のテーマ「協働の始まり」が示すように、この使命は一人で担うものではありません。多様な賜物を持つ者たちが、キリストというひとつの頭のもとで共に仕え合う——それが「協働」であり、「キリストにあって、多様な私たちがひとつの体へ」と向かう歩みの実質です。
任せてくださる方は、私たちの弱さをご存知の上で「遣わす」と言われた復活の主です。その方の言葉に聞きながら、弱さを抱えたままでも互いに寄り添い、キリストの言葉に共に立ち帰る——その歩みの中で、多様な私たちは少しずつ「ひとつの体」へと育てられていきます。共に仕え、共に育つ歩みを、今週も続けてまいりましょう。