ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
主日礼拝宣教要旨

「復活の主に出会う」 朴 思郁 牧師

2025年4月20日(日)
主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所 マタイによる福音書 28章1-10節

「イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」

マタイによる福音書28章10節

 イースターの朝、マグダラのマリアともう一人のマリアは、暗闇が残る早朝に墓へと向かいました。彼女たちは十字架の場にも最後まで付き添い、イエスの死を見届けた女性たちです。なぜ彼女たちはまだ暗いうちに墓へと向かったのでしょうか。遺体に香油を塗るため以上に、イエスへの深い感謝と愛が彼女たちを動かしたのでしょう。「石をだれが転がしてくれるのか」という不安を抱えながらも、彼女たちは一歩を踏み出しました。この一歩が、復活の出来事の最初の証人となる道を開いたのです。
 墓に到着すると、大きな地震が起こり、天使が現れて石を転がし、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、ここにはおられない。復活なさったのだ」と告げました。女性たちは恐れながらも喜び、弟子たちに知らせようと急ぎ足で墓をあとにしました。ところがその途中、彼女たちにさらなる驚きが訪れます。復活されたイエスご自身が彼女たちの前に現れ、「おはよう(喜びあれ)」と語りかけられたのです。
 この言葉は単なる挨拶ではなく、神の救いの完成と新しい時代の到来を告げる宣言です。女性たちはイエスの足を抱き、ひれ伏しました。それは再会の喜び以上に、死を打ち破られた神の子への礼拝の行為でした。イエスは「恐れることはない。わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と語られました。逃げ出した弟子たちを「兄弟たち」と呼び、変わらぬ愛を示されたのです。
 私たちにとっての「ガリラヤ」とは何でしょうか。それは単なる地名ではなく、霊的な「原点」を意味します。信仰に目覚めた場所、癒され、励まされ、新しくされた経験の場所です。初めて聖書の言葉に心打たれたとき、赦しを深く実感したとき、祈りの中で神の臨在を感じたとき、主の晩餐の恵みが心に染みわたったとき──それらは、私たちの信仰を形づくる原点、「ガリラヤ」なのです。イエスは今も私たちの「ガリラヤ」で出会ってくださいます。「無理だ」と思いつつも愛のために踏み出すとき、その歩みが現代の「ガリラヤ」となるのです。
 イースターの喜びは一時的な感情ではなく、どんな状況にあっても内側から湧き出る希望です。苦しみの現実を否定するものではなく、むしろそのただ中で与えられる「生きる力」なのです。死を前にしても希望を失わなかったボンヘッファーは、『善き力にわれ囲まれ』を記しました。彼が語ったように、キリストが死に打ち勝たれたからこそ、私たちは苦しみの中でも喜び、死の影の谷を歩くときにも恐れることがないのです。

関連記事

PAGE TOP