「慈しみとまことは出会い/正義と平和は口づけし まことは地から萌えいで/正義は天から注がれます。」
詩編 85 編11-12 節
朴 思郁 協力牧師
8月を迎えて、私たちは平和という言葉を普段より多く耳にしています。それは、第2次世界大戦を経験して以来、戦争による悲惨な結果を知っているゆえに、平和の大切さを改めて覚えようとする思いが含まれていると思われます。ところが、世間では平和という言葉がやみくもに使わされ、「偽物の平和」に惑わされる場合もあります。預言者エレミヤは、当時の一部の預言者たちに対して、「彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して/平和がないのに、『平和、平和』と言う」(エレミヤ 6:14)と言います。本日の聖書の言葉を借りると、正義と平和が口づけすることで、「真の平和」がありますが、イスラエルの社会から正義が排除されていたにもかかわらず、偽預言者と言われる彼らは、「平和である」と言っていたからです。
当時のイスラエルは表面的には安定していたのかもしれません。しかし、そこには正義がありませんでした。神と人間との縦の関係においては、偶像崇拝が蔓延していました。人間同士の横の関係においては、社会的弱者たちを踏みにじることによって、正義は地に落ちていました。そのようなイスラエルには、実に平和が存在しなかったのです。真の平和は、弱い人々の痛みと苦しみを共に背負ってくださることから始まるからです。古今東西を問わず、この世は、弱者を踏みにじり、追い出そうとしています。私たちは、今の世界情勢を通して、そのような現実を目の当たりにしています。そこには、平和がありません。平和は、「人間が神と自分自身、隣人、そして自然との関係において正義で美しい調和を保つことによって味わえる状態である」からです。
私たちは常に自分の持っている平和理解を確かめなければなりません。果たして、自分の平和理解は、誰に、どこから教わったものなのか、もしかしたら、力と富を握っている立場から植え付けられたものではないかと、意識的に、批判的に省察しなければならないのです。平和の真の意味は、嬰児イエスがご自分の身を置かれている、薄汚い飼い葉桶に下っていくときにこそ、はじめて理解できるようになります。それは「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられた」(フィリピ 2:6-7)主イエスを模範として生きることです。最も貧しくて弱い立場で、共に苦しみと悩みを抱えながら、歩んでくださる主イエスにならっていくことなのです。
Antonio LópezによるPixabay