そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
マルコによる福音書 15章21節
ピラトは主イエスに死刑の判決を下すと、主をむち打った後、兵士たちに引き渡した。兵士たちは主イエスを官邸の中に連れて行き、紫のマントを着せ、茨の冠を頭にかぶせ、葦の棒を笏として持たせて、世にも惨めな王に仕立てあげた。そして、ひざまずいて「ユダヤ人の王、万歳」と敬礼し、唾を吐きかけ、葦の棒で頭を叩いて侮辱した。しかし、主イエスは一言も口を開かず、彼らの侮辱に耐えられた。「彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(イザヤ53:2)。
朝が明けると、兵士たちは主イエスを引き出し、十字架を背負わせ、処刑場に向かった。夜通しの尋問とむち打ちで心身を消耗した主は、重い十字架を担いで行くヴィア・ドロローサ(悲しみの道)で何度も倒れたであろう。早く仕事を済ませたい兵士たちは道端の見物人から一人の男を呼び出し、無理に主の十字架を負わせた。今日の聖句は、初代教会において、その人の名とその子どもたちの名が知られていたことを示す。
シモンは無理に十字架を負わされた。彼の前を行くのは惨めな死刑囚であった。彼は自分に降りかかった苦難に、「なぜ自分が」と不運を嘆いたであろう。しかし、これによって彼はゴルゴダの丘で主の十字架の死に立ち会うことになり、家族と共に神の救いにあずかる契機となったのである。「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)。自分に負わされた苦難を背負って、主の御足のあとに従う者は幸いである。主の救いを見るからである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。