あなたがたは「先生」と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。
マタイによる福音書23章8節
主イエスは律法を重んじたが、律法を教える律法学者たちを厳しく批判した。彼らは人々に律法を守らせようとして、これに細かな規則を付け加え、律法を重荷のように背負わせたからである。律法は本来、神の恵みに喜んで応える信仰の行いであり、その中心は愛である。律法学者たちは人々に要求するばかりで、律法の中心である愛を忘れていた。また、律法学者たちに対する主イエスの批判は、彼らのすべての行いが、祈りですら、神に対してではなく、人に見られるため、人の賞賛を得るためになされていたからである。
同じような誘惑にさらされる私たちにとっても、主イエスの批判は他人事ではない。神に救われ、愛されて生きる私たちは、神の恵みに感謝して祈り、賛美し、献金し、奉仕をする。ところが、神に捧げるはずの信仰の行いが、いつのまにか人から認められるための行いになってしまうという誘惑である。主イエスは私たちをこの誘惑から解放するために、今日の聖句を語った。私たちの間では、ただ一人の師である主イエスがおられるだけである。牧師は、他の兄姉と共に、ただ一人の師を仰ぐ一人の人である。主イエスは私たちを伴い、導いてくださるただ一人の師である。主は私たちが誘惑に陥る時、み言葉をもって私たちを正しい道に引き戻される。主の言葉は私たちの道の光、私たちの歩みを照らす灯である。主は私たちを御心に適う者とするために、時には試練を通して鍛錬する。「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか」(へブル12:2口語訳)。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。