キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ。
ローマの信徒への手紙1章1節
パウロはローマの信徒たちに手紙を出すにあたって、今日の聖句のように自己紹介をした。「僕」とは、当時の奴隷を意味する言葉である。パウロは自分のことを、主イエスが命じられたことを行う奴隷であると言った。これは「イエスは主である」と告白するキリスト者の自己理解である。キリスト者は主の御心を行うために召された僕である。
神を信じるパウロは、信仰の熱心さの故にキリスト教会を迫害した人であった。迫害のために息をはずませてダマスコに向う途上で、パウロは復活の主イエスに出会うという霊的な経験をした。そして、教会の迫害者から一転して、主を信じる者となった。主はパウロを世界に出て行って福音を伝える使徒に任じた。これをパウロは主に「召された」と言う。「召された」とは、主のご用に仕える僕とされたことであるが、パウロはそのことを光栄に思っている。なぜならば、知らなかったとはいえ神に背いた者を、主イエスが捉えてくださり、罪を赦して、神のものとしてくださったからである。パウロは主イエスを通して、罪人を救う神の一方的な憐れみと恵みを知った。
パウロは、今、教会の兄姉たちに向かって「神に愛され、召されて聖なる者となった一同へ」(7節)と呼びかける。パウロは教会の兄姉たちも自分と同じように、主イエスによって神の憐れみと恵みにあずかり、神のご用のために召された人々であることを知ったからである。キリスト者は使徒であれ、だれであれ、神の一方的な憐れみと恵みにあずかり、福音宣教のために主に「召された」ということにおいて、兄弟姉妹である。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。