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主日礼拝宣教要旨

2022年2月6日(日) 在宅主日礼拝 宣教要旨「いのちの糧の分かち合い」ヨハネによる福音書 6章47-51節

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 

ヨハネによる福音書6 章 51節

朴 思郁 協力牧師

 新約聖書には、命と訳されている三つのギリシャ語、「プシュケー」、「ビオス」、そして「ゾーエー」があります。まずプシュケーの場合は、いわば生物学的な命です。医学的にいえば、生きている人は、誰もが持っている肉体的な命を持っていますが、それをプシュケーというのです。例えば、イエスは、マタイによる福音書6 章 25 節には、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と言います。その「命」に当たるギリシャ語がプシュケーなのです。
 そして、もう一つの命に当たるビオスという言葉は、英語の「バイオ」の起源なるギリシャ語です。英語ではバイオが「生物」、「生命」、「生理」などの意味で使われているのと違って、ギリシャ語のビオスは、命であるよりは、「生活」や「暮らし」に近いです。例えば、ヨハネの手紙一では、私たちが気をつけなければならない誘惑として、「肉の欲、目の欲、生活のおごり」(ヨハネ一 2:16)をあげています。ここで「生活のおごり」と訳されているのがビオスで「暮らし」、または「生活の水準」と訳することができます。
 そして、最後にゾーエーという言葉は、神が私たちの中に植えさせてくださった命です。それは奥深い次元の命として、まるで種のようなものです。イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに
受けるためである。」(ヨハネ 10:10)と言われました。それはその命の種を咲かせて、実を結ばせて豊かにさせるためにこの世に来られたと言われているのです。イエスは、「わたしは命のパンである」と言われています。イエスは、命のためのパン、命を生かすパン、命を豊かにさせるパンとして来られたのです。私たちの中に秘められているゾーエーの命は、イエスに出会い、いよいよ生き生きと生かされるのです。
 主の晩餐を行うたびに、私たちは単なる儀式ではなく、私たちの中に授かっているゾーエーの命がますます豊かになることを願いつつ、主イエスが私たちに永遠の命を与えてくださる主イエスの業を覚えることが何よ
り大切です。主イエスの業を覚えることとは、十字架の出来事を覚えることだけではなく、主イエスが私たちそれぞれに望んでおられる生き方は何なのかを思い起こすことにほかなりません。それがまさに「いのちの糧の分かち合い」なのです。


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