隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
マタイによる福音書6章6節
信仰生活は神との交わりの生活である。その中心は礼拝である。礼拝の内容は、神の言葉を聞き、祈って、神の祝福にあずかる行為と、神を賛美し、献身を表明して、神の祝福に応答する行為がある。いずれも、神に向かってなされる信仰の行為であるが、いつのまにか人間相手の行為になってしまうという信仰の誘惑が、常に私たちにつきまとう。人からの称賛や評価を期待して、自分の礼拝行為を殊更に見てもらおうとする誘惑である。
私たちは祈ることでさえ、神が相手ではなく、人が相手となるという誘惑にさらされる。誘惑に弱い私たちをご存じである主イエスは、祈る時には、奥まった自分の部屋に入り、戸を閉めなさいと言う。主は私たちが信仰の仲間と共に祈ることも勧めているが、私たちの祈りが神に向けてなされるように、まず密室の祈りをするようにと勧める。
主イエスは、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」(1節)と言う。主は「報い」を否定しない。ただ人からの報いではなく、天の父からの報いを求めよと言う。「隠れたことを見ておられる天の父が、あなたに報いてくださる」(4節)。隠れたことが現われる日が来る。その日、神は必ず報いてくださる。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(フィリピ3:14)ことが、信仰生活のあり方である。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。