11月15日
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。
ヨハネによる福音書7章37~38節
主イエスは祭りの場所に来て、今日の聖句で人々に呼びかけた。祭は人々の日頃の憂さを晴らす。しかし、終れば興奮は冷め、空しさが帰ってくる。待っているのは金や権力という、力がモノを言う現実である。力を得るために競い、弱者は切り捨てられる弱肉強食の社会である。いじめ、不正、暴力が後を絶たない砂漠のような渇いた社会である。しかし、そうした社会を作っているのは、他ならない私たちである。
私たちは渇いている。そのことを一番よくご存じである主イエスが、今日の聖句をもって私たちを招かれる。私たちが渇いているのは魂である。もし人間に魂が無かったら、食べることに事欠かず、体が丈夫であり、精神的・本能的な欲求が満たされていれば、それで満足するだろう。しかし、魂を持っている人間はそうはいかない。
「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(創世記2:7)。人間は肉体の充足を求める生物的存在であると同時に、神の息吹きを必要とする霊的存在として造られた。「来て、飲め」と言われる主イエスは、人の魂を潤す「生きた水」であり、神の息吹きである。孤独な者、病む者、死を恐れる者も、主の許に来るならば、「生きた水」が与えられる。魂の渇きを覚えて、主の許に来る者は幸いである。「神よ、あなたは私たちの魂をあなたに向けて造られたので、私たちの魂はみ許に憩うまで安きを得ません」(アウグスティヌス)。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。