2026年5月17日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:マルコによる福音書 10章42節〜45節
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
マルコによる福音書10章45節
仕えることは、努力で身につける才能ではなく、すでに仕えてくださった主の招きを受けて、隣人の足元に降りていくことを許される賜物です。栄光の右と左を願った弟子たちを、主イエスは呼び寄せ、新しい価値観を教えてくださいました。今朝はフォード・マドックス・ブラウンの「ペトロの足を洗うイエス」のように身をかがめて降りてくる主のお姿を覚えつつ、三つのことを心に留めましょう。
まず、仕えることは「世の価値観をひっくり返す生き方」です。主は「異邦人の間では支配者が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない」と告げられます。ギリシャ語で「仕える」を意味する「ディアコネオー」は食卓の給仕を指し、当時は奴隷や女性たちが担っていた目立たない働きでした。主はその「下」と見なされた働きを、教会の中心に据えられたのです。世のヒエラルキーをそのまま教会に持ち込まない——それが神の国の決定的な転換です。
次に、仕えることは「教会という共同体の中心にある営み」です。「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と主は言われます。ステファノたち七人の執事(ディアコノス)が、やもめへの配給から始まったように、教会の役職は最初から「給仕する人」として生まれました。ただし、み言葉が文脈を離れて、特に女性たちを抑え込む鞭として用いられてきた歴史を忘れてはなりません。賜物が支配の道具に変えられないよう、神に帰すべき「義しさ」を私物化する愚かさから自由でありたいと願います。
最後に、仕えることができるのは「まずキリストご自身が仕えてくださったから」です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)——マルコ福音書の中心とも呼ばれるこのみ言葉が示すように、主は最も高い所から最も低い所へ降ろされ、僕のかたちを取ってくださいました。テモテへの手紙一・三章末尾の「キリスト賛歌」が描く、受肉と十字架の「降下」と栄光への「上昇」——その全体が、私たちを仕える者と造り変える根拠です。
仕えるための賜物は、特別な才能の話ではありません。すでに主に仕えていただいた者として、隣人へ、社会へと、自由に身をかがめていくことが許されている——一人ひとりに開かれている恵みです。ペンテコステを迎えるこの週、聖霊に押し出されて、それぞれの場所で誰かのために身をかがめる小さな一歩を、ご一緒に歩んでまいりましょう。