2026年5月24日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:使徒言行録 2章1節〜13節
すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
使徒言行録 2章4節
ペンテコステの主日を迎えました。先週は「仕えるための賜物」と題して、仕えるために来てくださった主に倣う歩みを聴きました。今朝は、その仕える業がどこから注がれてくるのか——その源を、聖霊降臨の出来事の中に見つめます。エルサレムには世界中から人々が集まり、それぞれが故郷の言葉と祈りを抱えていました。そのような場所に、聖霊は降ってこられたのです。今朝は、三つのことを心に留めましょう。
まず、聖霊は「一つに集められた群れのただ中に」降られました。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」(1節)と記されています。聖霊は、特別な一人の上にではなく、心を合わせて祈っていた共同体の真ん中に降ってこられたのです。婦人たちもイエスの母マリアも兄弟たちも共に祈っていた、その群れの上に。教会とは、「一つに集められる」というあり方そのものが聖霊の働きの場となる共同体です。そしてこの「一つになる」は、決して「同じになる」ことではありません。
次に、聖霊は「それぞれの故郷の言葉を生かす形で」働かれました。弟子たちは学んだこともない外国の言葉で神のみ業を語り始め、人々は自分の故郷の言葉でそれを聞きました。大切なのは、聖霊が聞く側にではなく、語る側を「聞き手の故郷の言葉で語る者」へと造り変えられた、ということです。私たちが生まれ育った言葉と感性をそのまま携えて神の前に立つことを、神は許してくださっているのです。賜物の形は一人ひとり違っていて、それでよいのです。
最後に、聖霊は「私たちを証しする者へと造り変えてくださる」霊です。弟子たちが語っていたのは自分たちの体験談でも信仰の自慢話でもなく、ただ「神の偉大なみ業」でした。私たちが「主は生きておられる」と語ることができるのも、自分の力ではなく聖霊の働きによるのです。私たちもまた、それぞれの場所で、ご自分の「故郷の言葉」で、神のみ業を証しする者へと招かれています。たとえ受け入れない者がいたとしても、聖霊が、その小さな一言を確かに支えてくださるのです。
聖書教育には、「あらゆる恵みの賜物は神の一方的な厚意に由来しますが、人と人との関わりの中で、賜物は見出され、磨かれます」と記されています。礼拝後、2025年度決算報告総会の時を持ちます。それは単なる事務的な手続きではなく、聖霊によって一つに集められた群れが、この一年を主の前に感謝をもって差し出し、新しい歩みを主に委ねる交わりの時です。聖霊に押し出されながら、それぞれの賜物と「故郷の言葉」を携えて、それぞれの場所へ遣わされていくのです。