2026年3月1日(日) 主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:詩編23章1-6節
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」
詩編23章1節
本日の聖書箇所は詩編23編です。この詩編を書いたダビデは、少年時代に父の羊を飼い、獅子や熊から羊を守る日々を過ごしました(サムエル記上17:34〜35参照)。その経験の中で「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるにちがいありません」と告白するほどに、神への信頼を深めていきました。やがて王となった後も、息子アブサロムの反乱で王宮を追われ、裸足でオリーブ山を泣きながら登る日が来ました。詩編23編は、順風満帆な人生から生まれた楽観の詩ではなく、苦しみの深みを知る者が告白した信仰の詩なのです。
第一に、「養い、憩わせてくださる主」について見てまいります。ダビデは主なる神を「羊飼い」と呼びます。羊は自分で水や草を見つける力が弱く、外敵に対して無力な動物であり、羊飼いなしには生きていけません。「わたしには何も欠けることがない」とは、物質的に不足がないということではなく、主が共にいてくださるという確信の中ですべてが満たされているという信仰の告白です。疲れ果ててしまう私たちを、主は「青草の原」に休ませ、「憩いの水のほとり」に伴ってくださいます。今月の主題は「恵みと展望」です。恵みとは、私たちが何かを成し遂げたから与えられるものではなく、主が一方的に注いでくださるものです。その恵みを受け取ることからこそ、新しい展望が開かれていくのです。
第二に、「死の陰の谷を共に歩んでくださる主」について考えます。4節で詩人の言葉は三人称の「主は」から二人称の「あなたが」へと転じます。最も暗い状況に置かれた時、神は「あなた」として直接呼びかける存在となるのです。受難節の今、今週の『聖書教育』の学び(マルコ10:32〜45)では、イエス様がエルサレムへ向かう道中で受難を三度目に予告される場面が取り上げられています。弟子たちが的外れな願い事に心を奪われる中でも、イエス様は忍耐をもって導き続け、「人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と語られました。イエス様は私たちに先立って死の陰の谷を歩んでくださったお方です。だからこそ「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」と告白できるのです。
第三に、「食卓を備えてくださる主」について学びます。敵を前にしても食卓が整えられるとは、どんな困難な状況にあっても主との交わりが守られるということです。ダビデも荒野での逃亡中、アビガイルが食糧を携えて来た経験をしました(サムエル記上25章)。困難の最中に備えられる食卓は、神が私たちを忘れておられないことの証しです。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う」——「追う」という原語には追跡する、追いかけるという強い意味があります。恵みは私たちが求めに行くものではなく、主の方から追いかけてくるものなのです。「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」という結びの言葉は、復活の希望を先取りしています。
少年ダビデは荒野で羊を守る日々の中で主が共にいてくださることを学び、波乱の生涯を通してその信仰を深めていきました。私たちの歩みもまた順風満帆ではないかもしれません。しかし、どのような道を通ろうとも、主の恵みと慈しみは前からも後ろからも私たちを囲んでいてくださいます。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」——この信仰の告白を携えて、主の導きの中でこの一週間を歩んでまいりましょう。