2025年4月27日(日)
主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:マタイによる福音書28章 16-20節
「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書 28章20節
人の最後の言葉には特別な重みがあります。日本文化では、辞世の句のように死を前にした言葉が深く尊重されます。豊臣秀吉の「露と落ち、露と消えゆく―これが我が人生」という言葉は、伝道者の書の「空の空、すべては空」を思い起こさせます。ならば、神の御子イエスの最後の言葉はどれほど大切にすべきでしょうか。
イエス・キリストが弟子たちに与えた「大宣教命令」は単なる命令ではなく、贈り物です―神が世界で行っていることの一部となる特権です。「わたしは天と地のすべての権威を与えられている」と宣言されたイエス様に仕える私たちは、恐れや恥ずかしさを捨て、その権威の下に歩むことができます。「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という呼びかけは、必ずしも遠くへ行くことを意味しません。それは日常生活―家庭、職場、近所―でキリストの光を輝かせることです。弟子づくりは関係から始まります。強制や議論ではなく、愛と謙遜をもって生きることです。
日本文化では調和と平和が大切にされていますが、それらの価値は神の心を反映しています。長年忠実に教会に通い、静かに家族がキリストを知るよう祈り続けてきた方々に伝えたいことがあります:神はあなたの忠実さを見ておられます。名声ではなく、忠実さこそが神の祝福を受けるものです。私たちの穏やかな精神、困難の中での平和、祈りの生活は、一言も言わなくても主の教えを示しています。静かにあなたの人生を見ている人々がいるかもしれません。従順は圧力からではなく、関係から育つものです。
そして何より、この使命において私たちは決して一人ではありません。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という約束があります。これが伝道的な人生の力の源です。イエス様は私たちを送り出し、さらに近づけてくださいます。イエス様だけが人の心を変えることができ、そのイエス様が常に私たちと共におられるのです。
大宣教命令は負担ではなく招待状です!イエスの使命に参加するための招待状なのです。ヨハネの福音書13章35節にあるように、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」私たちは完璧である必要はありません。すべての答えを持っている必要もありません。しかし、イエスの近くにとどまれば、彼が私たちの完全さとなってくださいます。「強く雄々しくあれ。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア1章9節)