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地域と共に歩む桜並木の教会

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主日礼拝宣教要旨

「今日を生きる信仰者として」朴 思郁 協力牧師

2024年2月4日(日)主日礼拝宣教要旨
聖書箇所:  マタイによる福音書25章16-23節 

 

「主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを 管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」

マタイによる福音書 25章23節


 本日、私たちは、マタイによる福音書にある「タラントのたとえ」を扱いますが、ルカによる福音書に記された「ムナのたとえ」と比較することで、神の国における私たちの役割と責任について考えてみましょう。「タラントのたとえ」では、僕たちにそれぞれ異なる量のタラントが与えられ、その活用が試される一方で、「ムナのたとえ」では、全ての僕に均等にムナが与えられ、平等な機会と責任が強調されます。これらのたとえ話は、私たちが持つ才能や機会の違いを浮き彫りにし、それに応じた責任を示唆します。
 主イエスがこれらのたとえを語られたのは、当時の社会的、政治的背景を踏まえています。ローマ帝国の支配下のユダヤ社会における社会的、経済的格差は、当時の状況を示していると同時に、私たち一人一人が神から与えられた才能に応じた責任を持つことの重要性を強調しています。この教えは、私たちがどのようにして才能や資源を活用し、神の国の建設に貢献できるかを考える機会を提供します。
 一方、インディアナ・パーデュ大学のキム・ジェス教授によると、「タラントのたとえ」に新たな視点をもたらし、経済学的な観点から現代社会の経済的格差や不公正な競争と結びつけました。彼の提案は、聖書解釈の伝統的な方法と現代的な読み方の違いを明らかにし、社会的な不公正への抵抗を模索します。この解釈を「タラントンのたとえ」に適用して、ナチス・ドイツの官僚アドルフ・アイヒマンの事例を取り上げることで、個人の行動がもたらす倫理的な影響に光を当てます。政治哲学者ハンナ・アレントが「悪の平凡性」として分析したアイヒマンの行動は、命令への盲目的な従順の危険性を示し、私たちの才能の使い方とその倫理的な誤りの可能性に警鐘を鳴らします。私たちの行動が社会的正義と平和の促進にどのように貢献できるかを深く反省することが求められます。
 「タラントンのたとえ」は、私たちと教会共同体に特別な使命が与えられていることを示しています。それぞれの教会は、神から授かった才能と資源を活用し、自らの役割と責任を果たすべきです。真の成果は他の教会との比較ではなく、神が私たちに託した使命への忠実な応答にあります。私たち個人としても、教会共同体としても、与えられた才能と資源を最大限に活用し、神からのスチュワードシップの使命に積極的に取り組むことが望まれています。

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