「これはあなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしを記念としてこのように行いなさい」
ルカによる福音書22章19節b
今給黎 真弓 牧師(豊中バプテスト教会)
バプテスト教会では、パンと杯を用いながら、イエス様の宣教と癒しのわざ、死と復活のご生涯を思い起こし、記念としての主の晩餐式を行います。受難節のこの時期に、最後の晩餐の記事に思いを巡らせたいと思います。
十字架の前夜、最後の食事を弟子たちととられたイエス様は、パンを裂きつつ「これはわたしのからだ」、杯を「私の流す血による新しい契約」と宣言されました。弟子たちに与えられたからだ、新しい契約の血、イエス様のいのちをいただくとはどのようなことでしょうか。
過越の祭りの食卓は、エジプトの奴隷であったイスラエルの民の解放を記念して行われていました。しかし、当時の社会の中では、異邦人、徴税人、障害者等々の枠をつくり、一部の人々だけが喜ぶ体制を作り、「奴隷状態」を作り出していました。イエス様のご生涯は、まず神様の愛がすべてのいのちに及んでいるという宣言から始まり、人を屈みこませる様々な枠を取り払い、人々の癒しと宣教のわざでした。弱くされ、はずされた人々に近寄り、手を伸ばし、食卓を共にされました。その人は、その人のままで神様からの愛をいただいていることを知らせるいのちのわかちあいのご生涯でした。最後の晩餐では、弟子たちに対して特別な使命が与えられます。パンと杯がイエス様のいのちと新しい契約を表すものとして、イエス様のいのちがわけられます。弱さ(裏切り)を抱えた弟子たちが、それでも新しい生き方へと歩みだすことが期待されました。
私たちもまたそのつながりの中にいます。主の晩餐式を行う毎に、イエス様の言葉とわざに思いをはせ、今日を生きるいのちを与えられていきます。人を屈みこませる枠をとりはらい、それぞれのいのちを喜び、楽しむ生き方を選び取っていくことが出来るように、たがいにいのちをわけあっていくことができるようにとのうながしがそこにはあります。誤りの多い私たちですが、私たちの資質に関わらず、まずは、イエス様のいのちがわけられたところに信頼して一歩を進めていきたいと願います。
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