イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
マルコによる福音書15章39節
処刑場に集まってきた人々は主イエスを見て、「神の子なら、十字架から降りて来て、自分を救え」と叫んだ。これに対して、主イエスは罵 り返すことも、神を呪いもせず、人々の嘲りを忍び、想像を絶する苦痛に耐えられた。たしかに、十字架に架 けられたこの人の姿は神の子にはほど遠かった。奇跡の兆候すら現れず、神は沈黙したままである。壮絶な死が迫る中で、主イエスは大声で叫んだ。「エリ・エリ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」。
今日、私たちは十字架刑のむごさを想像することはできない。もし十字架に架けられた主イエスを目の前にしたら、立ちすくんでしまうであろう。十字架に架 けられた主イエスの様子を一番近くで見ていたのはローマの百卒長であった。
主イエスは神から棄てられた。「わたしと父とはひとつである」と神と分かち難い関係を語った主イエスにとって、神に棄てられることは、まことに肉体の苦痛以上であったであろう。しかし、この人は神から棄てられているのに、神に向かって祈っておられる。ここにこそ、この人と神との関係が示されている。この人は、神から与えられた自分の生を受け入れておられる。この人が苦しみに耐えているところで、神はこの人と共におられる。百卒長は、人の罪を耐え忍ばれる主イエスの姿に、神の子を見た。
私たちは栄光が輝くキリストにおいてではなく、十字架のキリストにおいて神と出会うのである。神の栄光は私たちが苦難に出会ってくず折れるところに現わされる。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。