「 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、 『 道で話しておられるとき、 また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」
ルカによる福音書24章32節
西川口キリスト教会 石水 泰
エマオで起こった事は、最初弟子たちの目が遮られて、道で出会ったその人がイエス様だとわからなかったり、食卓に着いた時に弟子たちの目が開かれてその人がイエス様だとわかったり、またその途端にイエス様の姿が見えなくなったりと、ちょっと信じがたいような不思議なことが起こっているように思われます 。 しかし、イエス様の説き明かしを聞きながら弟子たちの心が燃える様子、そして旅人がイエス様だったのだとわかって復活されたという確信を得た喜び。そのように弟子たちの心の目が開かれていく様子が、私には大変現実的に感じられます。
その後イエス様の姿が見えなくなってしまいますが、弟子たちは、肉眼では見えないけれども心の目が開かれて、イエス様が寄り添ってくださっているという感覚が残りました。見捨てられてはいない、いつもそばに伴ってくださっているという感覚です。心の目が開かれた二人の弟子たちは、イエス様の復活をありありと感 じました。イエス様が臨在されている。あまねく生きておられる。そう感じた二人の弟子たちの心は、どれほ ど安心と希望と喜びに満ち溢れていたことでしょうか。
コロナ危機、戦争。人は、何か事が起こると、自分自身のもともとの罪が見えなくなってしまい、自分勝手なことばかり考え始めます。心の目が開かれなければ、見えているようで実は何も見えていないのだ、という ことを肝に銘じなければなりません。
しかし、それでも主はいつも私たちと共にいてくださいます。真摯に祈り求めれば、主は私たちの祈りに耳を傾けてくださり、そして私たちの心の目を開いてくださるのです 。
アイキャッチ画像