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主日礼拝宣教要旨

2022年2月20日(日) 在宅主日礼拝 宣教要旨 「人間の道、神の道」 ヨハネによる福音書14章1-6節

「トマスが言った。『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を 知ることができるでしょうか。』イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたし を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」

ヨハネによる福音書 14 章5-6節

朴 思郁 協力牧師

 本日の箇所は、イエスと弟子たちとの対話ですが、その対話の中には、私たちの人生における道についての話が交わされています。弟子の一人であるトマスが「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」とイエスに聞きました。それに対して、主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました。この主イエスとトマスの対話の中には、二つの道が示されています。
 一つは、人間が神に近づく道です。それを聖書は「行い」と言います。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです」(エフェソ2:8-9)。アウグスティヌスは、「神よ、あなたは私たちがあなたを追い求めていく存在として私たちを造られました。わたしたちの心はあなたの中で憩うまで、安らぎを得ることはありません」と言いました。言い換えれば、神によって植えられた魂は、永遠に至る道を歩みたいと願いつつ、自力で永遠に至ることができないということです。
 もう一つは、神が人間に来られる道です。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました。それは、人間が神に近づいていこうとする道とは違って、それは、人間のほうに近寄ってこられる神の道です。それは、神御自身がイエス・キリストにおいて人間となられた啓示と恵みの道です。人間の行いによって近づくことのできる領域ではありません。ただただ恵みのみによって至る義の道なのです。
 ルカによる福音書15章には、あの有名な「放蕩息子の帰郷」が次のように記されています。「彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。放蕩息子が父親のもとに帰ってきたのではなく、父親が放蕩息子に走ってきたということです。要するに、放蕩息子のたとえには、自ら神に近づこうとしても決して近づけない「人間の道」と、神御自身が人間に寄せてこられる「神の道」、すなわちイエス・キリストにおいて示されている「道」が鮮やかに示されているのです。

 

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