坂本 献 牧師(所沢バプテスト教会)
▲エルサレム巡礼からエチオピアに戻る宦官がおりました。異邦人で旧約聖書が伝える神を信じていました。しかし、その帰り道はどこか寂しげです。エルサレムでの礼拝においても、外国人、加えて宦官は去勢されており、律法の中では他のユダヤ人と同じ礼拝はできなかったのです。▲宦官は馬車の中でイザヤ書を読んでおりました。そこに主の霊、主の導きによってフィリポが送られます。そして、宦官に近づき「読んでいる内容が分かりますか」と尋ねます。宦官は「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と答えます。▲フィリポは馬車に乗り、宦官の横に座ります。宦官の疑問はイザヤ書53章の「苦難の僕」とは、誰のことなのかということです。預言の成就を知らない宦官は当然です。フィリポはここで示されている「苦難の僕」とはエルサレムで十字架刑により殺され、そしてよみがえった「イエス・キリスト」であることを証ししたのです。さらにイザヤ書56章まで至るそこには「異邦人はユダヤ人と区別されない、枯れ木にすぎない宦官も、わたしの祈りの家の喜びの集いに連なる」と記されているのです。▲馬車の中は、喜びに満ち、希望に満ちていました。御言葉と福音を分かち合い、対話しながら、宦官はバプテスマを受けます。▲直後、フィリポはいなくなります。でも「宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」。フィリポがいるかいないか、は問題ではない。伝道はイエスさまを心から紹介し、信仰の手引きをいたしますが、さいごは神様に委ねるのです。▲神様がこの世界でどのように宣教をすすめていくのか。主は宣教のために人を用い、教会を用います。伝道とは、違いがある人々と、聖書を共に読み、共に育ち、共に生きる道です。そして全世界の全被造物が安全、安心、平和な社会を創造し、神さまからの命を大切にする世界を目指すことです。今日、私共は痛み苦しむ世界と我らの状況を知っています。我らの力は小さいものですが、世界のバプテストと共に祈り、ささげていく群れなのです。
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