西川口キリスト教会 朴 思郁 協力牧師
「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」(ルカ福音書21:3-4)
今年の10月31日は、宗教改革501周年記念日です。マルティン・ルターが「95か条の論題」の抗議文をヴィッテンベルクの城教会の門に貼りだすことで始まった宗教改革の背景は、中世カトリック教会に蔓延した腐敗、とりわけ聖ペトロ大聖堂の建築財源を集めるために、ありとあらゆる罪が赦されると宣伝した「プレミアム贖宥状(一般的に「免罪符」と言われる)」の販売が引き金でした。宗教改革によって「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」というプロテスタント信仰を享受する私たちにとって「今日における宗教改革の意味」は何なのでしょうか。
「やもめの献金」の箇所は、独自で読むより「律法学者に対する叱責」と「神殿崩壊の予告」という前後の文脈から考えなければなりません。旧約聖書には、「やもめ」のような存在は、ユダヤ社会共同体全体が支えなければならないと何度も繰り返して記されています。たとえば、出エジプト記や申命記などはもちろん、預言書のいたるところにも、「やもめ」と「孤児」に象徴されている「絶対的な社会的弱者」に対する連帯的責任を果たさなければならないことを想起させているのです。
そのような背景を念頭に置くと、「やもめの献金」に対するイエスの言及は、一人の貧しいやもめが生活費の全部を賽銭箱に入れたことを称賛するより、神殿中心的な教理や義務を掲げながら、社会的弱者に無情かつ無慈悲な当時の宗教的慣習について、憤りを覚えておられたのでないかと思われます。旧約聖書における「貧しいやもめ」は、献金をしなければならないのではなく、むしろ献金によって支えられなければならない立場だったからです。おそらく彼女は、律法学者のような宗教関係者に言われるままに、何らかの宗教的な義務を果たさなければならないと純真な心で受け止めていたのでしょう。
時代を問わずに、どんな宗教にも組織そのものや関係者たちの利害関係や既得権の維持のために、巧みに考案された論理や慣習によって、純粋な信仰が操作かつ利用されがちの「信仰の落とし穴」が潜んでいることを忘れてはなりません。宗教改革記念日に際して、人や制度への依存性を脱皮して、自らしっかりと考えていかなければならない、いわゆる「主体的な信仰」を保っていくこと、それこそが宗教改革の精神であることを覚えつつ、改めて信仰者としての姿勢を整えたいと思います。