2016年9月25日(日) 礼拝宣教要旨 西川口キリスト教会 朴 思郁
宣教題)「イエスに倣って生きる」ルカによる福音書10章25-37節
「イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(ルカ10:37)
「イエスに倣って生きる」という意味は何でしょうか。
まず、「聖書を読む」とは何かについてです。
自己顕示欲の強い律法学者は、自己中心的かつ偏狭な聖書理解をしていました。彼は、聖書(モーセ五書)には精通していても、固定観念やバイアスに縛られていたのです。イエスは、彼が取り上げた概念をそのまま用いて、彼の聖書理解の矛盾を指摘されました。聖書は、文脈を無視した「文字」だけにとらわれずに、常に本来の「精神」に照らし合わせて読まなければならないこと、つまり批判的に聖書を読むことの大切さを教えられたのです。
もう一つは、「神を愛する」とは何かについてです。
中世の神学者アウグスティヌスは、「我が神を愛する時、私は何を愛しているのか(What do I love when I love my God?)」という有名な質問をしました。つまり、私たちが「神を愛する」ということは、抽象的とか、内面的な事柄ではなく、具体的な行動、実践に現れるものでなければならないことを示しているのです。イエスは「最後の審判のたとえ」(マタイ25:31-46)を通して、「最も小さい者の一人」にしたこと、つまり社会的弱者に関心を持つことが、その具体的な行動、実践であることを教えられました。
最後に、「隣人を愛する」とは何かについてです。
イエスの「サマリア人の例話」にあらわれているユダヤ人の隣人理解は、自分の同胞らだけに限られる、排他的かつ偏狭な概念でした。たとえば、律法にある七年ごとの安息年の条項には、「外国人からは取り立ててもよいが、同胞である場合は負債を免除しなければならない」(申15:3)と記されています。イエスは、そのような隣人の定義を新しく提示するのです。自分を中心とするのではなく、助けを必要としている人から考えることです。言い換えれば、私たちは助けを必要とする人々に対して、隣人としての責任があることを教えられるのです。