マタイによる福音書4 章12-17節 西川口キリスト教会 斎藤信一郎
「そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。」(17節)
主イエスが生まれたのはユダのベツレヘムというダビデ王の出身地でしたが、幼少より宣教を開始されるまで過ごしたのは当時異邦人が多く住んでいたガリラヤ地方のナザレという町でした。そこからガリラヤ湖の北部にあった町、カファルナウムに移動して公の宣教活動を開始します。主イエスの宣教は初めから異邦人が視野に入っていたと言えるのではないでしょうか。
福音書が明らかにしていることは、主イエスもバプテスマのヨハネも共に「悔い改めよ、天の国は近づいた」という共通の福音宣教をしたことでした。ただし、両者には重要な違いが意味において存在していました。バプテスマのヨハネの方は神の裁きの時が近づいていることを前提に神に背いて罪の中に生きていることを自覚してその生き方を悔い改めることを強調したのに対して、主イエスは神が共に生きて下さる天の国が間もなく(生きている間から)始まるのでその世界に生きる者となるために神に方向転換して神に正しく向き直って生きるように悔い改めを宣教されました。
悔い改めとはそもそも「方向転換」あるいは「本来あるべき立ち位置に立ち返る」という意味です。二人とも正確には「罪を悔い改めよ、天の国は近づいた」と語ったのではないことに注目しましょう。主イエスが「悔い改めよ」と語られたのは、神が私たちに用意しておられる本来の人生の目的に方向転換して生きる者となるためだったと言えます。
ヨハネ福音書3章17節に「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」とあります。神が何よりも望んでおられることはこの世界を裁くことではなく、罪に影響されて神を軽んじ、神に背いて生きている現実から私たちを救い出し、祝福に満ち溢れた神との正しい関係の中に連れ戻すことなのです。そのための第一歩が「悔い改めよ」という福音なのです。