2026年4月5日 イースター礼拝 宣教要旨
聖書箇所 ヨハネによる福音書 20章19〜23節
父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。
ヨハネによる福音書 20章21節
イースターは、クリスマスと並んでキリスト教信仰の根幹をなす祝いの日です。クリスマスが神の御子の降誕を祝うとすれば、イースターはその御子が十字架の死を超えて復活されたことを祝います。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしい」(コリントの信徒への手紙一15章17節)とパウロが語るように、復活こそが信仰の土台です。しかし今日の聖書の場面に描かれているのは、勝利の凱旋ではありません。復活の日の夕方、弟子たちは扉に鍵をかけて閉じこもっていました。逃げ去り、裏切った者たちのその場所に、復活の主は来られたのです。イースターとは、恐れと弱さの中にいる者のもとに神が来てくださる物語です。三つの恵みを共に聴いてまいります。
まず、閉ざされた場所にも主は来てくださるということです。鍵がかかっていました。それでも復活の主は、閉ざされた扉を通り抜けて弟子たちの真ん中に立たれました。「あなたがたに平和があるように」——このシャロームの言葉は、十字架によって罪が赦され、神と人との間に和解がなされたという救いの宣言です。主はさらに十字架の傷跡を見せられました。復活は十字架を消し去る出来事ではなく、その意味を完成させる出来事です。恐れに凍りついていた弟子たちの心は、主を見て喜びへと溶かされました。今も主は、私たちが閉じこもっているどのような場所にも来てくださいます。
さらに、復活は新しい創造の始まりであるということです。主は弟子たちに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言われました。この行為は、創世記において神が人の鼻に命の息を吹き入れられた創造の瞬間を思い起こさせます。復活とは単なる蘇生ではなく、新しい創造の幕開けです。罪と恐れの中で死んでいた魂が、神の息吹によって生かされる——これがイースターの本質です。この新しい命を与えられた者たちの共同体が、今もこの世界に存在し続けています。
最後に、赦された者こそが遣わされるということです。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」——逃げた者、裏切った者に向かって、主はこう言われました。神は完全な人だけを用いられるのではなく、赦された人を用いられます。遣わされる根拠は、復活の主が共にいてくださるという事実にあります。この世界の赦されない傷、解けない対立に向かって、教会は神の赦しが現実であることを証しするために遣わされているのです。今月の主題「協働の始まり」が示すように、この使命はそれぞれの賜物を持つ者たちが共に担う歩みです。
復活の主は、今日もここに来てくださいます。閉ざされた扉を越えて立たれる主が、私たちの恐れと弱さのただ中に「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださいます。神の息吹によって生かされた私たちは、赦された者として共に担い、この世界へと遣わされています。逃げた者が証し人に、恐れた者が使者に変えられたように——復活の主は今も、私たちを新しく造り変えてくださいます。召されて、遣わされて、復活の主と共に歩んでまいりましょう。