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朗読 『一日の発見 365日の黙想』4月22日

4月22日

わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。

ローマの信徒への手紙14章8節


 今日の聖句は、生きる時も死ぬ時も、私たちは一人ではない、私たちには私たちをしっかりと捉え、持ち運んでくださる主がおられるという、キリスト者の喜ばしい信仰告白である。私たちキリスト者がこのように言える根拠は、イエス・キリストの死と復活である。「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(9節)。罪のために神に捨てられ死んでいた私たちのために、神の御子キリストが私たちのところまで降りて来て人となり、十字架の死において最後の極みまで私たちの罪をあがない、死からの復活を通して、私たちを罪と死の支配からご自分の御手に取り戻してくださった。そのことを知って、主イエスを救い主と信じ仰ぐ私たちは、今や、主のものであり、主の御手の中にある。
 もしもイエス・キリストが私たちのところに来られなかったら、そして、私たちのために死に、復活されなかったら、私たちは神に背を向けたまま、罪のために神の裁きによって死ぬべき者であった。しかし、今は、私たちは主のものであり、主の愛と慈しみの御手に守られて生きる者である。私たちは主のものであり、生きるにしても、死ぬにしても、主のために生きる。この世にある限り、さまざまな試練があり、罪の力と死の虚無が押し寄せてくるが、私たちは恐れない。私たちは主のものであり、もはや罪と死に支配されることはないからである。生きる時も、死ぬ時も、私たちの唯一の慰めは、私たちが主のものであり、主が私たちと共におられることである。


著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/

朗読はすべて教会員によるものです。文章と音声の転用はご遠慮ください。
この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。

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