神の慈しみと厳しさを考えなさい。
ローマの信徒への手紙11章22節
神の啓示の証言である旧約聖書は、神の慈しみと厳しさを語っている。神は抑圧されていたユダヤ民族を憐れみ、救い出した慈しみの神である。同時に、彼らに神の戒めを示し、これに背く者を裁く厳しい神である。
旧約の神は厳しいが、これと違って新約の神は愛であると言うのは誤解である。神の慈しみと厳しさは、御子イエス・キリストにおいて啓示された神においても同じである。神に背を向け、神の戒めをないがしろにしている罪人を救うために、神は御子の十字架を必要とされた。神は愛であるが、罪を不問にして甘やかす愛ではない。神は罪人の代わりに御子を十字架において裁き、義を貫かれた。人の罪が露わになった十字架の上で、神は御子を激しく打ち砕いた。
今日の聖句は、罪人を救う神の慈しみと同時に、厳しさを考えよと言う。とかく私たちは一方的に、神は愛であるから何をしても赦されると思ったり、神は愛であるのに何故すべての人が救われないのかと言ったりする。しかし、御子の十字架によって罪人を救おうとする神を仰ぎ見るならば、神は罪を悔い改める者には慈しみ深く、反対に、自分の罪を認めず高ぶる者には厳しい方であることを知る。
パウロは、信仰によって救われた者は木の幹に接ぎ木された枝であると言う。すなわち、不信仰な者を木の幹から切り倒された枝に譬えて、たとい今は神の裁きによって切り倒されている枝であっても、神に立ち返るならば、「神は彼らを再び接ぎ木することがおできになる」(23節)と言う。罪を悔い改めるならば、神の厳しさは神の慈しみに変わるのである。
著者:内藤淳一郎 (1999年〜2014年 当教会主任牧師)
2020年にクリスチャンプレスに掲載されたご本人のインタビューを下記のリンクよりお読みいただけます。 https://christianpress.jp/naitou-junichiro/
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この朗読は『一日の発見 365日の黙想』の著者、内藤淳一郎氏の許可を得て、日本バプテスト連盟西川口キリスト教会が作成し毎日発信しております。