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主日礼拝宣教要旨

2018年8月5日(日)礼拝宣教要旨 「途方に暮れるときにこそ」マルコによる福音書7章24‐30節

西川口キリスト教会 朴 思郁 協力牧師

『女は答えて言った。
「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」』
                                                       マルコによる福音書7章28節

 東地中海沿岸に位置して現在のレバノンの領域にあたるシリア・フェニキアは、イエスの時代には「異邦人」の地域でした。イエスはティルスという地方に行かれて、おそらくユダヤ人の家でしばらく休息をされる予定だったようです。慣習的にはユダヤ人との関わりを好まない異邦人の地域が、かえってユダヤ人にとっては、何の妨げもなく、休みをとることができる場所としては最適だったのかもしれません。そのような状況の中で、イエスのところに、一人の女性がアポも取らずに突然訪ねてくる出来事が起こりました。彼女は「ギリシア人」で、当時の支配文化であるギリシア文明を身に着けている、いわゆる「教養のある人」でした。そのような彼女がイエスのところに訪ねてくることは決して容易ではありませんでした。彼女は当時の慣習や常識の壁を破らなければなりませんでした。一つは、自分のような非ユダヤ人を「犬」と呼び、誠実に向き合ってくれない、ユダヤ人と異邦人の間にある排他的な文化という壁です。もう一つは、中近東文化に共通する男尊女卑な社会にある慣習の壁でした。教養のあるご婦人が、幾つかの壁を乗り越えて、イエスのお休みのところに来たという行動には、彼女の切羽詰まっている姿があらわれています。重い精神疾患を患っている最愛の娘さんが助かるのは「この方しかいない」という切迫した気持ちで、イエスにしがみついていたに違いありません。
 ところが、イエスの彼女に対する対応は私たちの期待する姿ではありませんでした。信仰とは決まった形式によって結果が出される方程式ではないことを示しているように思われます。イエスが「食卓の下にいる小犬」のたとえを話されたのは、本来の趣旨は別として、私たちの期待とは違うものでした。しかし彼女はイエスとの対話を通して、侮辱と思われてもおかしくない状況においても、最後まで主に対する信頼を失うことはありませんでした。いかなる状況においても主に対する信頼を貫いていくこと、それこそが信仰であることを改めて教えられるのです。

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