西川口キリスト教会 戸井田 敦子
キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。
エフェソの信徒への手紙4章16節
7月第1主日に、私たちの教会は3人の方々のバプテスマを喜びました。私たちは一人一人バプテスマを受け、主との関係を回復し、新しい命をいただきます。けれど、教会員となり、そして共同体に属する、という必要があるのはなぜなのでしょう。一人だけで信仰を守る生活では、自分の世界、自分の価値基準を根本的に疑うことは、とても難しいのではないかと思います。教会に属し、ある意味無理やりに、外からの働きかけ、そして何よりも兄弟姉妹方の祈りに支えられて、時には苦しいけれども自分の信仰生活が変えられ、導かれていくのではないでしょうか。そういう意味で、共同体はとても大切な意味を持つものだと思います。しかし、信頼があるからこそ無意識に、私たちだけにしか通じない世界、閉鎖的な共同体になってしまう危険はないでしょうか。
バプテスマは「悔い改め」であり「方向転換」と学んできました。教会という共同体がバプテスマ者を迎える、それは、バプテスマを受けた人だけが新しくされるのではないはずです。自分たち共同体は何も変わらず、新たに入ってくる人が共同体に合わせて同化する、ということではないはずです。バプテスマを受けた人を迎えたことで新しい体の部分が加えられ、教会という一つの体そのものが新しい命を生きなおす、ということなのではないかと思います。慣れ親しんだ居心地の良い場所が変わるのを、私たちは嫌います。でもそこに安住していたら、共同体は固定化し、老化し、新しい命を受け止める力さえなくなってしまうでしょう。
自分が変わること、自分が属している共同体が変わることは、恐ろしいことかもしれません。でも、主は「恐れるな」とおっしゃるのではないでしょうか。けれどいつも、造り上げてくださるのは、導いて下さるのは主なる神です。常に成長させてくださり、新しい命を与え続けてくださる主。主に信頼して、キリストの体である共同体として、恐れずに歩み続けたいと思います。