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主日礼拝宣教要旨

2018年7月1日(日) 礼拝宣教要旨「わが助けはどこから」詩編121編1-8節

西川口キリスト教会 朴 思郁 協力牧師

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」(詩篇121:1,2)

 

私たちは、ある事柄を覚える際に、その意味を持ち続けるためにシンプルな「象徴」や「概念」を用いて表します。例えば、十字架がその代表的な象徴の一つです。確かに、十字架は、教会を表す最も知られている「象徴」です。十字架にはキリスト教の真髄が示されているために十字架を掲げているのです。それゆえ、私たちは十字架の前に心を整えたり、ひざまずいて祈る姿勢をとったりします。しかし、忘れてはならないのは、十字架そのものが何らかの効力を持っているわけではないということです。十字架はあくまでも、主イエスの十字架の出来事を思い起こすための「象徴」に過ぎないのです。

詩編121編1,2節には「山」と「主なる神」を対比させています。「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。」古今東西を問わず、山は神秘的かつ神聖なるものとして信仰の対象となっていることは稀ではありません。詩篇記者は、イスラエルの歴史を振り返りながら、山々によって私たちが守られるのではなく、存在するすべてをお造りになったお方が、いかなる状況においても、私たちを守り、導いてくださることを強調しているのです。目に見えるものではなく、目に見えないものが大切であるということです。

三人のバプテスマ式をお迎えすることができますことを大変嬉しく思っています。バプテスマは、象徴的な儀式として、主イエスによって救われた恵みに感謝する応答です。私たちは、救われるためにバプテスマを受けるのではなく、救われたからバプテスマを受けるのです。私たちは、実際水に浸されることによって、十字架の上で死なれたイエスとともに古い自分が死に、水の中から立ち上がることを通して、復活されたイエスとともに生きるという信仰を、バプテスマという形を通して身をもって告白するのです。バプテスマを受けられた三人の方はもちろん、私たちみんなが、主は、いかなる状況においても、私たちの歩みを最後まで守り、導いてくださることを、改めて覚えながら信仰生活に励んでいきたいと願います。

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