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2009年4月19日「神の言葉として」

 わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れた。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。 (Ⅰテサロニケ2章13節 ) 

                  

 会堂がなくても、福音が正しく説教され、それを神の言葉として聞く者たちがいるところに、教会は存在する。ゆえに教会は、「神の言葉を語る」という説教者の課題と、説教を「人間の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」という聞く側の課題がある。

 説教者が「どうして人間が神の言葉を語ることができるのか」と自問し、苦闘しながら説教するのは、第一に、神の召命のゆえである。第二に、説教者はまず自分が神の言葉を聞き取るために神学の作業(釈義)をする。説教は聖書の感想を述べることでも、信仰の体験談を語ることでもない。パウロの説教も彼自身が受けた福音であって、彼が考え出した思想ではなかった。説教者は聖書から神が語ることを正しく聞き、福音によって生きる喜びを新たにしつつ語る務めを負っている。第三に、祈りである。説教者は聖霊の助けなしに、キリストの十字架、復活、再臨を語ることはできない。説教者は神の言葉を聞いて語るために、聖霊を求めて祈らなければならない。また、教会員に執り成しの祈りを願わなければならない。

 説教は教会の業であるから、説教者だけでなく、教会員も聞くことによって説教を担うのである。聞く側に求められる第一は、祈りである。「説教において何が重要であるかを知っている教会員は、どんな礼拝説教に対しても、自分が連帯責任を負わねばならないことを知っている。というのは、背後のとりなしの祈りを捧げる会衆のいない説教者は、すべて最もうまくいった場合でも、『学者のように語る』か、悪くいった場合は、演説家のように語る他ないからである」(リュティ)。聞く側に求められる第二は、謙遜である。宗教改革者カルヴァンは、自分よりも能力のない人間から神の言葉を聞くのは、神による謙遜の修練であると言っている。;;”223″

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