「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光をあらわされた。」(ヨハネによる福音書2章11節)
主イエスが母マリアや弟子たちと共に招かれた婚礼は、ガリラヤのカナという、北方の平凡な町で行われた。一週間かけて盛大に行われる祝いの宴のために、家族は精一杯もてなしの支度をしたであろう。しかし、あろうことか婚礼の途中で「ぶどう酒が足りなくなった」(3節)。母マリアはその危機を察知し、主イエスにそっと告げた。それに対する主イエスの返答は一見つれないようにも見える。「・・・わたしの時はまだ来ていません」(4節)。主イエスの「時」とは、十字架にかけられ復活し、天に昇られる時である。主イエスは公生涯の始めからご自身の来られた意味を強く意識しておられたがゆえの言葉である。
しかし、だからといって、主イエスは我々の日常のあれこれを無視される方ではない。むしろ熱心に関わり、心配して下さる。この婚礼の危機をも主イエスは見捨てることなく、むしろ、そこで豊かな祝福を注ぎ最初のみわざを示された。「水がめ」の「水」に象徴される古い秩序は、主イエスによって新たな救いの秩序に変えられる時を迎えたのである。
我々は、この主イエスを「信じ従う」者とされたい。たとえその意味が分からなくても、主イエスが命じられることを最大限に誠実に行い、御言葉に親しみ祈りつつ、御心の示されるのを待ちたい。この生き生きとした交わり、やりとりを主イエスは望んで下さり、やがて「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」(8節)という時が来ると、我々の人生の中に主イエスのみわざが豊かにあらわれるのである。;;”267″