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地域と共に歩む桜並木の教会

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主日礼拝宣教要旨

2008年7月6日

正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。  使徒言行録24章15節

人間は生物的存在であり、その体の仕組みは実に精巧、かつ繊細であり、コンピューターの比ではない。また、人間は精神的存在であり、真善美を求める心、喜怒哀楽を表現する感情を持っている。それだけではない。人間は良心を持つ霊的存在である。「良心」の原語は、「(神と)共に知る」という意味で、神に向けられた心、神の戒めを知る心である。良心は「なすべからざることをした」私を裁き、告発する。良心の告発によって、私は罪の呵責を感じ、苦悶する。良心は私の内にあるのに、私の自由にならず、私を超えている不思議なものである。

「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れて」(ローマ1:20)いて、神について知りうる事柄は明らかであり、神がそれを示している。秩序と調和に満ちた天地万物を見て、また被造物の一つである人間を見て、これらは偶然であると言うのは、無神論という信仰に立つ人間であろう。

良心を持つという事実は、人間がその行為に責任を負う者として創造された証拠である。それゆえ、人は皆、終わりの日に復活して、神の裁きの前に立つことを冒頭の聖句は語る。良心は神が発信するアンテナであるが、人間はこれを麻痺させ、破壊するので、神はイスラエルの預言者たちによって戒め(モーセの十戒)を語られたが、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られた」(ヘブライ1:2)。すなわち、人の罪を忍耐して来られた神は、御子によって人の罪を贖い、赦しを宣言された。御子を信じる者は神に義とされる。御子の十字架の死による贖いの恵みを知る者は、「神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努める」(16節)。そして、神に「御心をなさせたまえ」と祈りつつ生きる。;;”286″

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